沼本満成(ぬもと みつはる)さんの作品 「急行安芸」C5310形蒸気機関車の勇姿
昭和16年竹原市生まれ。昭和29年8月入園、昭和35年退園。図画、貼り絵、粘土工作に秀でていた沼本さんは、当時の学園(広島市古江町)のそばを通る山陽本線の列車を熱心に観察し、精密で力強い蒸気機関車の絵を多数描きました。作品は百貨店や鉄道85周年展覧会などに出展され、東の「山下清さん」に対して、西の「沼本満成さん」と呼ばれることもありました。
六方学園の「六方」とは、二千五百年の時を越えて伝えられているブッダが若き青年シンガーラに出会い教えた「六方礼経」に源がある。東南西北天地の六つの方角には人としての心の持ち方と人間関係のあり方があると説かれ、この世の生命すべては平等であり大いなる慈愛によって生かされていると説かれている。
戦後、連合軍総司令部の広島地方を管轄していた進駐軍政の福祉部長であったD(ドロシー).デッソー女史などから、視察時に学園名に強い干渉があった。「六方学園」をアメリカの児童施設のように「希望の家」や「白鳥の家」など子供らしい園名に変えるようにと再三の申し入れがあった。
当時の占領軍の指示などは絶対的な強制力があったが、創設者田中正雄初代園長は「六方」という二文字に込められた人道的な深い慈悲の心情があることを説き信念を押しとおした。さぞかし勇気がいったことであろう。その後、デッソー女史は軍籍を離れ、日本の社会事業に従事する人材育成に尽力され京都の住まいで亡くなられたと聞く。
その時代に強い要望に応じ「六方学園」を別の園名に改めていたら、創立の精神も薄れ、今とは違った学園史を刻んだことであろう。園名一つにも、学園史を語る生き証人であり、まさに「名は体を表す」出来事であった。
昭和21年8月
アメリカ民生部 D.デッソー女史一行
当時の園児たち
(同日撮影)