社会福祉法人 六方学園 - 東広島の障害児入所施設・障害者支援施設・短期入所事業所・日中一次支援事業所・相談支援事業

沼本満成(ぬもと みつはる)さんの作品 「急行安芸」C5310形蒸気機関車の勇姿
昭和16年竹原市生まれ。昭和29年8月入園、昭和35年退園。図画、貼り絵、粘土工作に秀でていた沼本さんは、当時の学園(広島市古江町)のそばを通る山陽本線の列車を熱心に観察し、精密で力強い蒸気機関車の絵を多数描きました。作品は百貨店や鉄道85周年展覧会などに出展され、東の「山下清さん」に対して、西の「沼本満成さん」と呼ばれることもありました。

共に生きる社会へ。
「六方学園」は昭和6年、児童4名職員5名の小さな施設としてスタートしました。以来85年以上にわたり、知的障害のある方々が豊かな生活を送れるよう、社会的な自立を支援しています。
学園沿革
*文章中では、当時の用語・表現をそのまま用いているため、現在においては適切でない用語・表現がございます。予めご了承いただきたく存じます。
初代学園長・田中正雄は、島根県下組合高等小学校に校長として勤務していましたが、知的障害児の不遇を憂慮し、大正12年校長職を捨て、広島市尾長小学校の特殊教育初代主任として広島に赴きました。2年間尾長小で知的障害児の教育に努めた後、広島市三滝町に、六方学園の前身「広島教育治療学園」を設立。児童4名、職員5名、知的障害児のための家庭的な施設としてスタートしました。
学園を広島市矢賀町に移転し「六方学園」と改称。昭和15年1月、広島県社会事業として認可されました。その後、戦時色が濃くなるにつれ、学園生活も苦難の時代を迎えます。戦況が学園にも暗い影を落としていた昭和20年8月6日、約4キロ離れた広島市に原爆が投下されました。園舎は破損し園児、職員にも死傷者が出ました。
広島市高須町に移転拡張。社会福祉法人“六方学園”として認可され、重度児童専用の別館「胡桃苑」を創設。園児40名・職員12名。
昭和24年11月に秋季第一回運動会を、地域参加で行ないました。
東広島市西条町に新築移転し、定員130名に。平成13年4月、施設を全面改築。平成24年4月1日に六方学園更生部を六方学園成人部に改称。平成28年に創立85周年を迎え、現在に至ります。
公益財団法人 日本知的障害者福祉協会 出版「天地を拓くー知的障害福祉を築いた人物伝ー」(2013 年3 月刊行)に、『田中正雄 誓いと「六方」にかけた想い』として、学園の歴史が紹介されました。
六方学園 名称の由来

ぶれなかった「六方」にかけた信念

六方学園

六方学園の「六方」とは、二千五百年の時を越えて伝えられているブッダが若き青年シンガーラに出会い教えた「六方礼経」に源がある。東南西北天地の六つの方角には人としての心の持ち方と人間関係のあり方があると説かれ、この世の生命すべては平等であり大いなる慈愛によって生かされていると説かれている。

戦後、連合軍総司令部の広島地方を管轄していた進駐軍政の福祉部長であったD(ドロシー).デッソー女史などから、視察時に学園名に強い干渉があった。「六方学園」をアメリカの児童施設のように「希望の家」や「白鳥の家」など子供らしい園名に変えるようにと再三の申し入れがあった。

当時の占領軍の指示などは絶対的な強制力があったが、創設者田中正雄初代園長は「六方」という二文字に込められた人道的な深い慈悲の心情があることを説き信念を押しとおした。さぞかし勇気がいったことであろう。その後、デッソー女史は軍籍を離れ、日本の社会事業に従事する人材育成に尽力され京都の住まいで亡くなられたと聞く。

その時代に強い要望に応じ「六方学園」を別の園名に改めていたら、創立の精神も薄れ、今とは違った学園史を刻んだことであろう。園名一つにも、学園史を語る生き証人であり、まさに「名は体を表す」出来事であった。

昭和21年8月
アメリカ民生部 D.デッソー女史一行

当時の園児たち
(同日撮影)